島田洋七 まとめページ


プロフィール

 
 島田洋七

 1950年2月10日生まれ
 広島県広島市出身
 漫才師、タレント、作家漫才コンビ B&Bのひとり

島田洋七とはどのような人物なのか?

 
 1980年代の漫才ブームの中心的存在で、さまざまなメディアを席巻した

 漫才ブームでの人気絶頂から急降下、その後「佐賀のがばいばあちゃん」で
 ベストセラー作家となる激動の人生を歩むお笑い芸人。
 今や多くのひとが知る「佐賀のがばいばあちゃん」は、佐賀の祖母に預けられた
 小中学校時代の八年間を綴ったものである。
 島田洋七の講演会は日本一の講演回数をほこる、それは現在も更新されている。
 自身の親、義母の介護生活を13年間経験している。

生い立ち・経歴 ~成功と転落の波瀾万丈の人生~

 
 1950年広島県広島市に生まれる。小学校一年生6歳の頃、佐賀の祖母に預けられる。

 小学校~中学校まで佐賀の学校に在籍するが、母への思慕が募り、
 また野球が上手かったこともあり、1965年春に高校野球の名門・広陵高校に野球推薦で
 入学し故郷広島に戻ることとなる。その後練習中の怪我により、野球をあきらめる。

 1970年に大阪にいた野球部OBのすすめで、なんば花月で笑福亭仁鶴の落語や、
 中田カウス・ボタンの漫才を観る。それがきっかけで芸人になろうと決意する。
 大阪から東京に拠点を移し「お笑いスター誕生!!」で初代グランプリを獲得、
 漫才ブームを巻き起こす。B&Bが東京に来なければ、漫才ブームは起こらなかったと
 言われている。ビートたけしやそのまんま東(現東国原英夫)との豪遊も、
 よく語られる逸話のひとつである。

 1982年の番組終了と同時に人気が急降下し、翌年にはB&Bを解散。
 精神的な理由で6年間の休養生活に入り、表舞台から姿を消す。
 その後、飲食事業などにも手を出すが次々に失敗に終わる。
 芸人引退を決意し、たけしに相談するが「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ」と
 一喝され、引退を思いとどまった。
 1996年、吉本に復帰、生涯一漫才師を誓い、洋八と再びB&Bを復活させた。

 レギュラーを持っていたラジオのゲスト達がきっかけで講演会に興味を持ち、
 群馬県の商工会議所を皮切りに講演をはじめることとなる。
 今ではお馴染みの「佐賀のがばいばあちゃん」であるが、この頃の洋七は
 祖母との思い出は恥ずかしい過去でもあり、あまり他人に話していなかったという。
 しかし講演で祖母の話をすると非常に盛り上がった。

 ビートたけしと飲んだ際、たけしの母親自慢に対抗して、祖母の話をしたら
 涙を流してたけしが大笑いし「絶対に本にすべき」とアドバイスされた。
 それがきっかけとなり、話をまとめ出版社へ持ち込む。
 その頃40社まわったが請けてもらえず自費出版した。
 この本が後に大ベストセラーとなる「佐賀のがばいばあちゃん」である。
 三度目の出版で徳間書店から出版させてほしいと話があり、口コミで評判が広がる。
 その後「がばいばあちゃん」シリーズはベストセラーとなり映画化・ドラマ化され、
 再び注目を浴びた。2007年の時点で総売り上げは20億円超、徳間書店の社員全員に
 "がばいボーナス"が出たといわれている。
 当時、多数のテレビ出演の他、「佐賀のがばいばあちゃん」を演目とした
 講演依頼が殺到し、その回数は今ではダントツ日本一となっている。

島田洋七にまつわるエピソード


■B&Bのギャグの代表格「モミジまんじゅうー!」

 これはネタではなくアドリブで偶然生まれたものだと言われている。
 今や広島県の名産品として名高いもみじ饅頭。当時は広島県民にとって
 あまり馴染みがなかったものの、洋七にとっては遠く離れた母を思い出す味だった。
 洋七が佐賀に預けられていた時代に、母が仕送りと一緒にもみじ饅頭を入れていたという。
 もみじ饅頭はB&Bのギャグによって全国区になったともいわれる。

■妻の勘違い「どうして給料がこんなに安いのか?」
 本人の語るところによると、
 最盛期、毎月数千万円が入った段ボールを妻に渡していたにも関わらず
 「こんなに売れてるのに、なぜ給料がこんなに安いのか」と真顔で言われた。
 顔面蒼白になりながら聞き返すと、段ボールの中身はファンレターと思い開けておらず、
 別に封筒で渡された端数の数十万円だけが給料と勘違いしていたとのこと。
 段ボールは押入れの中に保管されおり、約3億円の現金は無事だったという。

■「ビートたけしとの出会い」
 島田洋七を可愛がっていた横山やすしに「東京で一番面白い若手」と紹介されたのが、
 ビートたけしとの最初の出会いである。当時から売れっ子だったやすし師匠だから、
 銀座のクラブにでも連れていってくれるのかと期待していたら、
 千葉の国道沿いの大衆食堂へビートたけしと共に連れて行かれた。
 程なく店の大将と横山やすしがどこかへ行ってしまい、閉店まで置き去りにされたという。
 二人とも所持金がほとんどなく、仕方なく「始発まで歩こうか」と
 浦安まで4時間かけて歩きながら、夜通し夢を語り合った。
 「成功して大金を掴んだら何が欲しいか」の質問に対して洋七は「鯖を腹一杯食べたい」と
 言ったが、同じ質問に対してたけしは「俺は芸が買いたい」と言ったといい、
 「そこがたけしとボクとの差ですね」
 「この体験があったからずっと友達でいられたのではないか」と洋七は語っている。
 この日の所持金、数百円だった洋七とたけしであるが、
 この後年収7億、8億になったのはここから1年少し後の話である。

■ビートたけしと「親友になったきっかけ」
 ビートたけしと親友になったのは1986年、たけしがフライデー襲撃事件を起こしたことが
 きっかけである。謹慎中で誰も面会に来なかった中、唯一洋七だけが会いに来たため、
 たけしは感謝で一日中泣いたという。沖縄・石垣島で謹慎中のたけしの所に、
 当時ヒマだった洋七は週に3日ほど訪れ飲み歩いた。
 洋七は「芸能人ほど売れている人間が好きなやつはいない。芸能人がいちばん世間でも
 ミーハーなんや。それはアイツが、一番わかっている」とも話している。

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